連携講座「池袋学」|池袋のセゾン文化~文化戦略から演劇祭まで~
木田 英樹 さん(企画部広報課)
2014/07/24
トピックス
OVERVIEW
東京芸術劇場×立教大学主催 連携講座 「池袋学」2014年度<春季>
日時 | 2014年6月8日(日)14:00~16:00 |
会場 | 東京芸術劇場5階シンフォニースペース |
講演者 | 八木 忠栄 氏(詩人、元セゾン文化財団常務理事) |
レポート
東京芸術劇場と立教大学による連携講座「池袋学」。春季を締めくくる今回は、詩人であり、かつて西武百貨店でセゾン文化発展の一翼を担った八木忠栄さんに、「池袋のセゾン文化」について講演いただきました。
「セゾン文化」といっても、ある特定の世代以下の方には聞き慣れない言葉かもしれません。かつてセゾングループの代表を務めていた堤清二氏は、1973年の西武劇場(85年~PARCO劇場)を渋谷に開館したことを皮切りに、独自の文化活動を展開しました。1975年には池袋の西武百貨店内に西武美術館(後のセゾン美術館)、1979年には同じく西武百貨店内に多目的ホールスタジオ200(池袋)、1983年には大型レコードショップ六本木WAVEと映画館シネ?ヴィヴァン六本木をオープンするなど、美術、演劇、音楽など分野を横断したメセナ活動を推進してきました。
「セゾン文化」といっても、ある特定の世代以下の方には聞き慣れない言葉かもしれません。かつてセゾングループの代表を務めていた堤清二氏は、1973年の西武劇場(85年~PARCO劇場)を渋谷に開館したことを皮切りに、独自の文化活動を展開しました。1975年には池袋の西武百貨店内に西武美術館(後のセゾン美術館)、1979年には同じく西武百貨店内に多目的ホールスタジオ200(池袋)、1983年には大型レコードショップ六本木WAVEと映画館シネ?ヴィヴァン六本木をオープンするなど、美術、演劇、音楽など分野を横断したメセナ活動を推進してきました。
しかし、単にハコモノを開設しただけではその独自性を説明することはできません。セゾン文化の個性は企画力にあったといえるでしょう。各施設における展示?公演?上映作品に共通して言えるのは、古典?近代ではなく、「現代」の芸術作品を紹介すること。例えば、「日本の美術展覧会記録1945-2005」に掲載されている西武美術館の展覧会一覧をご覧いただくだけでも、その前衛性を理解していただけるのではないでしょうか。
このように現代アートにこだわったのも、堤氏の強い意向がありました。ご存じのように、堤氏はビジネスマンとしての顔ではなく、小説家「辻井喬」としての顔も持っていました。現代に生きる文化人として、同時代に生きる作家たちの作品を紹介する使命感に駆られていたのかもしれません。しかし、現代アートは商業性に乏しいことから、採算をとることは難しい。八木氏によると、堤氏自身、「文化人」と「ビジネスマン」の狭間で常に葛藤していたようです。
さて、講師の八木氏が西武百貨店に入社したのは1982年のこと。それまで出版社に勤務していた八木氏を、堤氏が一本釣りしたことがきっかけとなりました。入社後、文化事業部に配属された八木氏はスタジオ200の責任者として着任、プログラムの企画、施設の管理運営に従事しました。
多目的ホールのはしりとしてオープンした、スタジオ200の特徴を一言で表すと、「雑居文化」。映画、演劇、ダンス、コンサート、落語など、ジャンルを問わずさまざまな公演が繰り広げられました。イッセー尾形、土方巽、大野一雄、寺山修司、山口昌男、竹中直人、勅使河原三郎、三遊亭圓窓、三遊亭圓丈、高橋悠治、如月小春、渡辺えり子など??????。出演者の一端からもその雑多性をうかがうことができます。公演の企画は全て社内で考案したもの。「大量動員よりも質の高いものを工夫せよ」をコンセプトに、社員の方々が東奔西走した姿を垣間見ることができました。
このように現代アートにこだわったのも、堤氏の強い意向がありました。ご存じのように、堤氏はビジネスマンとしての顔ではなく、小説家「辻井喬」としての顔も持っていました。現代に生きる文化人として、同時代に生きる作家たちの作品を紹介する使命感に駆られていたのかもしれません。しかし、現代アートは商業性に乏しいことから、採算をとることは難しい。八木氏によると、堤氏自身、「文化人」と「ビジネスマン」の狭間で常に葛藤していたようです。
さて、講師の八木氏が西武百貨店に入社したのは1982年のこと。それまで出版社に勤務していた八木氏を、堤氏が一本釣りしたことがきっかけとなりました。入社後、文化事業部に配属された八木氏はスタジオ200の責任者として着任、プログラムの企画、施設の管理運営に従事しました。
多目的ホールのはしりとしてオープンした、スタジオ200の特徴を一言で表すと、「雑居文化」。映画、演劇、ダンス、コンサート、落語など、ジャンルを問わずさまざまな公演が繰り広げられました。イッセー尾形、土方巽、大野一雄、寺山修司、山口昌男、竹中直人、勅使河原三郎、三遊亭圓窓、三遊亭圓丈、高橋悠治、如月小春、渡辺えり子など??????。出演者の一端からもその雑多性をうかがうことができます。公演の企画は全て社内で考案したもの。「大量動員よりも質の高いものを工夫せよ」をコンセプトに、社員の方々が東奔西走した姿を垣間見ることができました。
このように、ソフト面での質の高さを維持したものの、ハード面での劣悪さには閉館まで頭を悩まされたそうです。狭小なスペース、興行場法との戦いを最後までに解決することができず、惜しまれながらも1991年12月に閉館しました。
一方、スタジオ200と並行して八木氏が関わった大きなプロジェクトが、1988年に開催された「東京国際演劇祭 ’88 池袋」です。当時「東京国際映画祭」を隔年開催していた渋谷に対抗して、「東京国際演劇祭」を池袋で開催しようという地元の声と、1990年に完成を控えていた東京芸術文化会館(現 東京芸術劇場)を国際的にアピールしたいという東京都の意向が一致して、行政、企業、団体、区民が協力しながら実現に至りました。1987年には、西武百貨店と東武百貨店の社員を中心とした事務局が設置され、八木氏が事務局長を務めました。
「共に池袋を拠点とするライバル同士であり、企業文化も全く異なる両百貨店が果たして協力できるのだろうか?」。そんな思いが頭をよぎりましたが、呉越同舟という言葉さながら、意外なことにお互いの文化を尊重し合いながら一致団結できたそうです。そして、「東京国際演劇祭を通じて多くの人々と出会えたことこそが何よりも貴重な財産である」。このことを強調されました。
東京国際演劇祭を成功裏に収めた後の1989年、八木氏は銀座セゾン劇場(後のル?テアトル銀座。2013年閉館)の総支配人として着任しました。異動の直前には、2回目以降の東京国際演劇祭でも現場担当を継続することを希望しましたが、その願いは叶わぬままとなりました。
こうして八木氏が池袋から離れてからわずか数年後にバブル経済が崩壊。セゾングループもその影響から免れることはできず、文化事業の縮小?撤退を余儀なくされました。90年代にもその残光は輝き続けましたが、1999年にはセゾン美術館、そしてWAVE六本木、シネ?ヴィヴァン六本木が閉鎖。これを機に「セゾン文化」は終わりを迎えたといっても過言ではありません。
改めて振り返ると、いま「セゾン文化」に対して前衛性や特殊性を感じることはできないかもしれません。今日、現代美術の展覧会は全国の美術館で催されていますし、世界各国の映画も毎月上映されています。その数を「セゾン文化」の全盛期と比べても、今日の方が圧倒的に多いことでしょう。しかし、このように一般化されたのも、「セゾン文化」のまいた種が芽を出し、花が開いた証拠ではないでしょうか。
「セゾン文化」自体は確かに一過性のムーブメントだったのかもしれません。しかし、そのDNAは脈々と受け継がれ、今日において普遍的な「文化」へと進化した、と断言するのは早計に失するでしょうか。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合がありますのでご注意ください。
一方、スタジオ200と並行して八木氏が関わった大きなプロジェクトが、1988年に開催された「東京国際演劇祭 ’88 池袋」です。当時「東京国際映画祭」を隔年開催していた渋谷に対抗して、「東京国際演劇祭」を池袋で開催しようという地元の声と、1990年に完成を控えていた東京芸術文化会館(現 東京芸術劇場)を国際的にアピールしたいという東京都の意向が一致して、行政、企業、団体、区民が協力しながら実現に至りました。1987年には、西武百貨店と東武百貨店の社員を中心とした事務局が設置され、八木氏が事務局長を務めました。
「共に池袋を拠点とするライバル同士であり、企業文化も全く異なる両百貨店が果たして協力できるのだろうか?」。そんな思いが頭をよぎりましたが、呉越同舟という言葉さながら、意外なことにお互いの文化を尊重し合いながら一致団結できたそうです。そして、「東京国際演劇祭を通じて多くの人々と出会えたことこそが何よりも貴重な財産である」。このことを強調されました。
東京国際演劇祭を成功裏に収めた後の1989年、八木氏は銀座セゾン劇場(後のル?テアトル銀座。2013年閉館)の総支配人として着任しました。異動の直前には、2回目以降の東京国際演劇祭でも現場担当を継続することを希望しましたが、その願いは叶わぬままとなりました。
こうして八木氏が池袋から離れてからわずか数年後にバブル経済が崩壊。セゾングループもその影響から免れることはできず、文化事業の縮小?撤退を余儀なくされました。90年代にもその残光は輝き続けましたが、1999年にはセゾン美術館、そしてWAVE六本木、シネ?ヴィヴァン六本木が閉鎖。これを機に「セゾン文化」は終わりを迎えたといっても過言ではありません。
改めて振り返ると、いま「セゾン文化」に対して前衛性や特殊性を感じることはできないかもしれません。今日、現代美術の展覧会は全国の美術館で催されていますし、世界各国の映画も毎月上映されています。その数を「セゾン文化」の全盛期と比べても、今日の方が圧倒的に多いことでしょう。しかし、このように一般化されたのも、「セゾン文化」のまいた種が芽を出し、花が開いた証拠ではないでしょうか。
「セゾン文化」自体は確かに一過性のムーブメントだったのかもしれません。しかし、そのDNAは脈々と受け継がれ、今日において普遍的な「文化」へと進化した、と断言するのは早計に失するでしょうか。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合がありますのでご注意ください。
CATEGORY
このカテゴリの他の記事を見る
トピックス
2024/10/21
創立150周年記念映画
『道のただなか』を公開
立教大学